愛するってどういうことだ

以下、ある人に向けたラブレターになります。


1.あーあ、好きなら抱き合っちゃえばいいのにね。


出会いは、この会社に入って割とすぐ。したがって1年ほど前になるだろうか?

部長に「彼の作っている番組を見学しに行け」と言われて、はあそういうもんですかとのこのこと出かけて行った。

その頃の私は、自分の思った通りに行動することの気持ちよさに目覚め始めた時期だった。

それなのに、会社ではそれが許されない。本能的な衝動は抑えさせられる。

そのわだかまりを解決する方が見つからなくてプスプス煙を出していた時期だったと思う。


彼のいる部署へ行き、彼のデスクの前に立ち

「すみません。」と声をかけた。

「なんだ」だか「誰だお前」だか言われたと思う。

自分の名前を喋り、

「あなたの番組を見学させてもらってもいいですか」と訊いた。

「なぜ」とすぐ返答が返ってきた。

私は答えた。

「好きだからです。」


「よし。わかった。

番組のあとの、終わった後の打ち上げも来い。」

そう言ってくれた。


怖い人だと、聞いていたから、とてもドキドキした。

というか、今でもドキドキする。


好きな詩人、茨木のり子の詩に

「ぎらりと光るダイヤのような日」

というものがある

以下、引用します


「短い生涯

とてもとても短い生涯

六十年な七十年の


お百姓はどれほど田植えをするのだろう

コックはパイをどれ位焼くのだろう

教師は同じことをどれ位しゃべるのだろう


子供達は地球の住人になるために

文法や算数や魚の生態なんかを

しこたまつめこまれる


それから品種の改良や

りふじんな権力との闘いや

不正な裁判の攻撃や

泣きたいような雑用や

ばかな戦争の後始末をして

研究や精進や結婚などがあって

小さな赤ん坊が生れたりすると

考えたりもっと違った自分になりたい

欲望などはもはや贅沢品になってしまう


世界に別れを告げる日に

ひとは一生をふりかえって

自分が本当に生きた日が

あまりにすくなかったことに驚くだろう


指折数えるほどしかない

その日々の中の一つには

恋人との最初の一瞥の

するどい閃光などもまじっているだろう


〈本当に生きた日〉は人によってたしかに違う

ぎらりと光るダイヤのような日は

銃殺の朝であったり

アトリエの夜であったり

果樹園のまひるであったり

未明のスクラムであったりするのだ


引用終了


わたしにとっての、〈ぎらりと光るダイヤのような日〉は、この時始まったようだ。

その時、彼と話したことの一語一句を覚えている、いや覚えているように錯覚していることの思い違いの強さが、それを物語ると思う。


詩の中では、〈ぎらりと光るダイヤのような日〉というものが、「本当に生きた日」という風に言い換えもされている。

私は、彼と話していると、本当に生きているなあと思う。